目に入っているのに気づいていない

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クラニオセイクラルってなんなの?という人が大半だ。当たり前だ。
どうにも近頃は永遠にドマイナーなものにばかり興味をひかれる。ここ数年関わっているフェルデンクライスにしても、クラニオセイクラルにしても、どちらも自分で問題や解決策を発見する、その手助けをするツールだ。練習を重ねるごとに自分の心身への感受性が高まり、心も身体の問題も不可分な、一体なものだと気づく。

とくにクラニオセイクラルの魅力は施術者も被施術者のどちらも感受性が高まってゆくことだ。いや高まるというより本来の感受性が戻ってくる、そんな印象だ。(フェルデンクライスも同じかな)

目に入っているのに気づいていない

例えば庭先で小さな花が毎年咲いていたのに気づいていない。でもその名前を知った途端に目につくようになる。そういうことはよくあることだ。
クラニオを学んでいる最中、会場の扇風機が起こす風ですら自分に強い影響を与えていると気づいた。都市部のような極端な環境においてだけではなくてあらゆる生物は普段使っていない感受性のスイッチがあるようだ。

クラニオにしてもフェルデンクライスにしてもそのような微妙な物事への感受性を取り戻す、異なるアプローチだ。

「型」にハマっている

ただそのぶん行う環境には気を使うべきだ。これまで僕自身が生きる環境に無頓着すぎた。いや、言い換えるとどんな環境でも生きて行けるタフさを持たねば、という「型」が強く反映されているのだろう(あるいはただの天然か)。

ぼくらはいつだってこれまでの教育から受けた型にハマっている。
身近なところだと
「まともな大人は結婚して家庭を持つべきだ」
「地域社会に属し、そのために頑張るべきだ」
など。

そもそもの価値観、罪悪感などといったものはすべて社会にとっての都合でつくられた「型」にすぎない。ただその「型」が大多数なので「普通」や「常識」という宗教になってしまうのだが。

環境を整える

あ、なんか手に負えない難しい話題になってきた(´・ω・`)
話を戻すと自分がハマっている「型」に気づき、認識した上で自分が快適にすごせる環境を整えるべきなんだろう。ようするに住みやすいところに住む。当たり前。

周囲のアドバイスはあくまで周囲の人の認識している世界の都合によるアドバイスでしか無く、自分の身体にとって都合がいいわけじゃない。

クラニオセイクラルを学びながら、改めてそんな当たり前のことの大事さに気づいた。自分もたくさん「型」にハマっている。

「型」に気づいたからといってそれを完全排除できるわけではなく、そもそも今こうして使っている言語も文化や歴史といったものの中で生まれたもの。スタンドアローンでいることは出来ないだろう。

コンタクト・インプロヴィゼーション

コンタクトインプロビゼーション(即興)っていうダンスの一種に参加している。
自分の中にあるもの、コンタクトする他のダンサー、環境、音楽、それぞれに影響を与え合って面白い動きが生まれる。インプロビゼーションなのでなんの台本もなく、意図もなく、次の瞬間何がおこるかわかりない。

自分自身は透明になり、水みたいになり、環境から受けるものが波紋のように影響を与え合い次の動きへつながってゆく。

うまく言葉にはできないけれど、クラニオセイクラルやフェルデンクライスと根っこはつながっているような気がしている。

いずれにしても求道的だなあ。

Akira

北海道出身、旅と写真と山とダンス好き。
クラニオセイクラルやタイマッサージなどのセラピストとして活動しつつ、ウェブ制作も手掛ける。
旅ネタの多い、気まぐれブログ。
詳細プロフィール

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